material zone=物質地帯

会場:横浜美術館 レクチャーホール

日時:2020年2月28日(金曜日)18:45分開場/19:00上映

上映作品(8作品97分)

1「15minutes」 立川清志楼/デジタル/15分/2019

2「ZONE_001」 立川清志楼/デジタル/9分/2020

3「DISSONANCE ~ 不協和音~」マルコ・マッツィ/デジタル/14分/2020

4「LUNA PARKのための習作」 三田村光土里/デジタル/2分/2011

5「Scrap yard」 井上雄輔/デジタル/10分/2020

6「内方浸透現象」 小松浩子/写真・サイレント/10分/2019

7「Animals」 金村修/デジタル/25分/2017

8「Cattle mutilation」 金村修/デジタル/12分/2019

 

Artist statement

「15minutes」「ZONE_001」 / 立川清志楼(写真家・映像作家)

知覚を覚醒することこそ実験映画を観る喜びのひとつといえる。商業映画に比べ実験映画は、ストーリーが無く単調でつまらないと感じる人は多くいる。商業映画は、受動的に観ているだけで楽しめるが、実験映画を楽しむには能動的にも観る必要がある。能動的に観るとは、映像を知覚として体験し脳内で再構成するのである。音楽家ジョン・ケージが著書「サイレンス」(柿沼敏江訳 水声社)で記してる言葉は実験映画についてのようだ。「禅ではこう言われている。もし二分たって退屈なら、四分試してみよ。それでもなお退屈なら、八分、十六分、三十二分などという具合に試してみよ。いつかは、退屈なわけではまったくなく、ひじょうに面白いということが分る。」

「15minutes」 立川清志楼

 

「DISSONANCE ~ 不協和音~」 / マルコ・マッツィ(video artist and painter)

アルバニアの とあるタール精製工場にて撮影されました。配管が織りなす迷路のような風景の中、作業は続きます。 

「DISSONANCE ~ 不協和音~」マルコ・マッツィ

 

LUNA PARKのための習作」 / 三田村光土里(現代美術家)

20世紀初頭、世界中に建設された遊園地LUNA PARK(ルナ・パーク)は、その大半が瞬く間に閉鎖した。2011年、震災直後に訪れたオーストラリアのメルボルンの海岸沿いで、今も遺るLUNAPARKのひとつに遭遇した。どこか物悲しい光を放つアトラクションは、まるで巨大な生きものが息をしているようで、ひと時の非現実の旅へ運ばれる大人と子どもの歓声が、遠くの空に響いていた。この習作を制作したのち、2015年にはアーツ前橋での「ここに棲む」展において、前橋に偶然にも存在している遊園地「るなぱーく」をモチーフに、映像と写真のインスタレーション作品「LUNA PARK」を制作発展した。

「LUNA PARKのための習作」三田村光土里

 

「Scrap yard」 / 井上雄輔(写真家)

カメラを三脚で固定し、録画を開始したらカメラを一切操作しない。撮影が束縛され、静的であるほど、相対的に画面の中の動きや音の力強さが増してくる。演出や物語といった装飾を排除し、目の前で起こったことをそのまま記録した映像は、偶然映り込んだものが、あたかも向こうから能動的に介入しているようにも見える。それらは、映像という枠によって凝縮され、肉眼で見るものとのズレや、奇妙さが生まれてくる。

「Scrap yard」井上雄輔

 

「内方浸透現象」 / 小松浩子(写真家)

静止画像に時間軸を機械的に付与した場合においても、私たちは機械的な整合を持って時間を把握し共有することは出来ない。現在は過去へと瞬間的に移り変わってゆくのではなく記憶により引き延ばされ形状を変化させられながら移り変わってゆく。さらに未来は現在の位置においては決定されていないため、未来は現在の隣に存在するものではなく継承されるものに過ぎない。これによって生じる時間は数値化することは出来ないが、個別の意識内においてはひとつの絶対的な価値であり実在であり得る。

「内方浸透現象」小松浩子

 

「Animals」「Cattle mutilation」 / 金村修(写真家)

キャトルミューティレーションというのは、1970年代のアメリカで起きた家畜が惨殺された事件のことで、臓物の一部がなくなったり、全身の血が抜き取られた動物の屍体が牧場に何頭も放置されていた有名な事件だ。血が抜かれ臓物を抜き取られたその現実とは思えない屍体の数々を見ていると、キャトルミューティレーションと映像はどこかに共通点があるのではないかと思う。映像もまた現実をそのまま映しているわけではなく、現実から身体的、有機的な要素を縮減させイメージ化されることで映像は成り立っているのだから、それは臓物や血が抜き取られ、内部の無い表面しか存在しない死体に変質させるキャトルミューティレーションとよく似ている。
映像は現実に還元できないし、映された現実と映像はイコールの関係を結べるわけではない。映像とは屍体なのだ。映像の現実は身体性、有機性が縮減された現実であって、それは現実ではなく、現実から搾り取られた現実の残余、滓であり、現実の余剰として存在する。屍体に対して生きている人間以上のリアル感を感じさせるのは、屍体が身体の余剰として現れるからだろう。現実の余剰としての映像に面白さがあるのならそれは現実そのものがそこに映っているという面白さではなく、キャトルミューティレーションの動物のように、それがそこにあったというかつての現実の動物と屍体化された動物の落差にあり、それは現実がそのまま映っている面白さではなく、現実が縮減されて映っているという面白さなのだと思う。映像はものそのものが映っているのではなく、ものの表面しか映らない。わたし達が映像を見るということは、ものそのものではなく、縮減されたことで生み出された余剰の表面のようなものしか見ることができない。表面しか見ることができない映像に対してもののリアル感を感じることができるのは、身体機能の停止という縮減によって屍体にリアル感が現れるように、ものの物質性は現実を縮減することで現れることができる。

「Cattle mutilation」金村修